消費について考える
20代の頃は、ゼロから1を産み出したいと思っていました。なにか自由に、出来そうな気がしていたんです。若気の至りでしょうかね。
“オリジナル”に躍起になって、紙雑貨を作ってクラフト市に出店している時代もありました。
でも自由って、ある面で不自由なんです。自分の中の価値観とかこだわりが邪魔してきたり、人の目が気になったり。それに対して、自由なんだから良いじゃないかと、反抗してみたり、傷ついてみたり。
その一つひとつが経験になっていますが、私にはとてもしんどかったです。
それに、本当のオリジナルがこの世にどれだけあるのか?を考えた時、ちっぽけな脳みその自分にできることなんて、とても限られている、たかが知れている、ということに気付きました。
そのちっぽけさに気づいてから耐えられなかったのが、こんな自分のために、美しく作られたまっさらな白い紙が、汚れていくことでした。
私が押すボタン一つで、プリンターに印刷され、折り目をつけられて、“商品”にされて売られて消費されていくのです。いや、今思えば消費は、私が印刷にかけたところで始まっていたのかも。それかもっと前、ボタンを押すところから?それとも私の手に入る前、製造されている段階から、消費なのかもしれない。白い紙にされるためにどこかで樹木が消費されているのですから。
私の手によって、白い紙から“商品”に生まれ変わったように見えるソレは、売れようが売れまいが、私が用意した商品棚に並んだ時点で、すでに消費されている。なんだかその状態が申し訳なく、後ろめたくもありながら、他に手段を知らなかった当時の私は、違和感を持ちながらもただ闇雲に、消費を繰り返していました。
転機は出産。それまで迷いながらやっていた創作も模索も、突然現れた新生物によって強制終了されました。
育児は消費の一方。子供のものはどんどん増え、そしてどんどん消費されていく。もったいないなんて言っている場合ではない。立ち止まる暇も考える隙もない毎日。
ようやく自分の時間が戻ってきたのは、息子がプレ幼稚園に行くようになってからでした。まず手はじめに、育児で放ったらかしにしていた自宅の器を直しました。カサカサだった漆器はみずみずしい色艶を取り戻し、欠けまくっていた器はおかずをのせると食卓で活き活きとして見えました。
あ、もう今までやっていたような消費はやめよう。と思った瞬間でした。
金継ぎは消費というより、むしろ、再生。壊れた器が消費されてしまうのを止めることができます。
壊れたらゴミ箱へ、という流れを変えられるんです。壊れたら直せばいい。
それに、ウンウン頭を抱えてゼロから1を産み出そうと無駄に悩む必要もありません。
器は大切に使えば、長く使える優れた道具です。我が家には、江戸時代に作られた器もあります。
数百円でさまざまなモノが買える時代ですが、私は原価の崩壊した安売りの棚に大切なものは並んでいないと思っています。その証拠に、消費している人々はどこか心がカサカサして、無いものねだりしているように見えます。高いものがいいとも限らない。個性的なデザイン、希少性、プレミア感、あるはずのない「特別」を探し回っても暮らしの役に立つのは一握り。正直、私にとっては全てどうでもいいことです。
それよりも暮らしを支えてくれる、力強い一つ一つの道具、そこに宿る気持ちや、残っている思いを大切にしたいと思っています。
モノを消費する、という、当たり前の流れ。人によっては何も疑問も持たず終わることでしょうけれど、どうも私は、見て見ぬふりをできないようです。