息子が1月末から体調を崩し、咳を伴いながら6日間くらい38〜39度の熱を出し続けていました。罹患している当人が大変なのは言うまでもありませんが、今回は長引く熱と咳で、看るほうも最後はさすがに疲れてしまいました。コロナのこともあり、気が気ではありません。これは普通の風邪なのか?それとも…、という不安が常にありました。ともかく今は元気になったのでホッとしています。

昔の整体師・野口晴哉さんの「風邪の効用」という本には、確か、大人も子どもも時には上手に風邪をひくことも必要だと書いてあったと記憶しています。意味があって風邪をひいていると思えば、風邪も悪いことばかりではないと心に受け止める余裕ができます。きっと息子は今回の風邪でまた一つ、強くなったのだろうと思います。

さて、問題は元気になってからです。今まで熱で思うように遊べなかった分、回復してからヤンチャが爆発。私が大事にしたいと思っているモノ、いつもなら触らないようなモノにまで手を伸ばして、自分の遊びに取り入れようとしていました。

そして小さな事件が起きました。私のお気に入りのアンティークの椅子に、何故か楊枝を突き刺して、座面に複数の穴を開けたのです。それまでの1週間の看病疲れと、想像もしなかった出来事を前に、完全に心が折れた瞬間でした。

私は器を直す仕事をしているくらいなので、基本的に自分の持ち物に対しても大事にしたいという意識が流れています。作家さんの器、骨董の器、昭和の引き出し、レトロな生地などなど。。。

そしてモノは使ってこそ価値があるという考えなので、わが家にあるモノ達にはきちんと働いてもらっています。子どもにもそのうち伝わればいいなと思いながら、日常使いしていました。

しかし…しかし、難しいものです。

この世に生まれて4年程度の人間にとって、「大事」な感覚というのは極めて限定的です。自分の持ち物に対してはコレが大事、という思いはある様子なのですが、自分以外の誰かが大事にしていることを想像するのは容易ではないようで、いとも容易く私の持ち物を破ったり汚したりしてくれます。

彼にどれだけのお気に入りを壊されてきたかを思い返すと、子どもって残酷だなぁとすら感じます。子どもにとっては、100円のお皿も、10000円のお皿も、値段は関係なく“お皿”でしかないのです。価値観を学び始めたばかりの年齢だけに無理はないのですが、彼の行動によって破壊されたモノ(と、私の心)を思うと、時に虚しさすら感じてしまいます。

モノを大事にしたいという思いで器を直し、古いものを使い継いでいる…一方で、子育ては消費するばかり、破壊の連続。私のやっていることは意味があるのだろうか?と。

だからといって、食卓にプラスチックの子供用食器を並べるのは違うと思っているので、相変わらず陶器や漆器を並べ続けるのですが。

モノの寿命、モノの価値って不思議です。

この仕事をするようになって、本当にこのテーマについて、よく考えるようになりました。誰かにとっては大きな意味のある器でも、また違う誰かにとってはゴミ同然だったりします。値段では決められない不思議な世界の中で、私はただ器を直すのです。

何年も続けていれば、子どもにも伝わるでしょうか。伝わってほしいと願いながら、また机に向かいます。